いんぷれっしょん

〜Oz's Leaves管理人の雑感所感〜
蛇にピアス
映画等
主人公の少女がひたすらに逃避を続け、最後まで逃避し続けて、それで終わる。そんな感想を持った。これが今の一部の若者の現実だと言われればそうなのかもしれないが、後味は悪い。
(※以下ネタバレ有り)
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|2009.05.24 Sunday |
マスクと日本人
思うこと
花粉症がすっかり定着してから多くの人がマスクをするようになったけれど、インフルエンザが猛威をふるうようになった数年前から、本当にマスク人口が増えた気がする。そんな中で4/27の日経夕刊 らいふプラス「やはりマスク手放せない」という記事が興味深かった。

びっくりしたのが、「他人に表情が見えないので気楽」「マスクをしてないと心許ない」といったコメントに見られるように、マスクに精神的な依存をしている人が多くなってきている現実だ。集団の中にいても、マスク一枚で隔離された感じになって安心になるのだろうか。社会的動物としてそれでいいのかって、ひどく違和感を覚えた。

海外ではマスク人口は少ないと聞いたことがある。多くの人がマスクをして、ただひたすらに携帯を見ながら歩いている今の日本の風景は、やはり異様に見える。マスクには「顔を隠すため」ってネガティブな印象もあるわけで、道を聞くために近寄って来た人がマスクをしていたら、やっぱり身を引く。それは自然な防衛反応だ。

まあ日本のマスク依存は別に悪さをしようとしてるわけじゃなくて、匿名好きのラインに載る日本人の特徴なんだろう。本名を出してリアルで役立つ付き合いをしようってことで始まったSNSも、ちょっと広がればあっさり匿名ネットになってしまうのが日本だ。自分の素顔を出さないで済むならマスクも心地良いってことなのだろう。

今のように豚インフルエンザ騒動の今はマスクは大いに結構と思う。また花粉症予防のマスクだって仕方がないだろう。でも「精神的にマスクに依存」ってのは、社会人としてあまりに未熟じゃないかなと思う今日この頃。
|2009.04.27 Monday |
ロボットクモ
イベント等
横浜開港150周年のイベントでクモが登場。世間知らずなので知りませんでした。「ラ・マシン」
ぱっと写真で見たとき、なんか宮崎アニメに出てきそうなデザインだなーと思ったのですが、こんなのが実際にそこらを動き回ってるなんて凄い!! 巨大ロボが出現する日も近いのかも。

Y150硬式サイトから
米光一成さんのブログ

ロボットつながりで言えば、しばらく前のクローズアップ現代で、日本のロボット技術を軍事利用しようとあちこちの国が狙っているって話をやってました。日本ってそういう点ではお人好しで無防備だから、とっても恐ろしい気にはなるのですが。
でも、日本でロボットを作っている人達は本当に子どもの頃の夢のままにものすごいものを作ってるんですよね。それで世界の最先端に行ってるのは、誇っていい国民性だとも思った。軍事のために開発するより、夢のために開発したほうが先に行けるんだよって。

クモつながりで言えば。
一ヶ月ほど前ですが、「アシダカグモ」ってのを初めてみました。
ある日家に帰ったら床に7cmほどの小枝のようなものが落ちてるんですよ。じーっと見てるうちに、これは虫の足なんじゃないかと思い至って。でかさから考えるとクツワムシの後ろ足? でも時期はずれだし、クツワムシって緑だし‥‥と悩んでたら、それを拾い上げた夫が
「これ、徘徊性のクモの足だな。このでかさだと、アシダカグモってやつじゃないか?」
なんでわかるんだ、夫よ。

探してみたら家の中にいたんですよ。もちろん7本足です(足を取ったのは絶対マールちゃんでしょう)。あんなでかいクモ初めて見ました! 虫についてはかなり平気な私も固まりましたねー。クモの好きな旦那は「セブン」って名前をつけてましたが、一応外に出て頂きました。
しばらく見てれば慣れて愛せるようになるかも‥‥とは思いました。でもマールと同居は無理。出てくるたびに足が1本ずつ減って、名前がカウントダウンになったら大変だもん。

昔別役実の「虫づくし」の蜘蛛の項で「蜘蛛を食って幻覚症状を愉しむという方法は、遠く平安時代からすでに知られていたのである。ただしこの蜘蛛が幻覚剤として特殊なのは、蜘蛛そのものの中に人をして幻覚せしめるなにものかがの成分が含まれているのではなく、人が蜘蛛を食おうとするその決意のうちに、人をして幻覚せしめるあるものが含まれているという点である」って文章があって、えらく印象に残ってます。
|2009.04.25 Saturday |
化粧とネット日記
思うこと
先日のNIKKEI MAGAZINEのパノラマ消費考現学「『みんなで化粧』の構造変化」(石鍋仁美)で、渋谷の109の「SBY」の紹介があった。その一部の完全にオープンな場所に化粧のコーナーがある。鏡とスツールがあり少女達がそこで化粧をする。仕切も衝立もないから、背後を通りかかった少女が、「それ可愛いね」と声をかけて、そこで知り合いになったりする。いやはやなんとも今風だ。

電車の中で化粧する女性をよく見かけるようになってずいぶんになる。雑誌や新聞のコラム記事などではよく「みっともない」とか言われていたが、私は育ちが良くないせいか、化粧している人を見ていてもあまり気にならない方だった。化粧より自分の子どもをまず座らせようとする若い母親や、年寄りを尻目に優先席で狸寝入りしている若者、ドアが開いてもドアの真ん中に頑張っている人の方がよほど問題に思う。
あの揺れの中できれいにアイラインなんか引いている人を見ると「器用だなぁ」と羨ましくなってしまう。あまり見るところのないすっぴん顔が(失礼)、ちょっとの化粧でぱっと華やいでいくのを見るのも微笑ましい。
そしてとうとう、オープンな化粧コーナーがマーケット戦略の俎上に乗る時代になって、私はふと思った。ネットで日記を公開するという行為と、人前で化粧をする行為、根っこの部分で似たような何かがあるんじゃないかって。

本来日記は人に読ませるべきものじゃない。なのにみんなネットで日記を書く。完全に作り事を書いている人もいるだろうが、真実で、かつ結構突っ込んだことを書いている人もいたりする。心の中にある言葉を文章という形にするのは、それだけで「公開して読んで貰って自分を知って欲しい」という欲望の現れなのだろう。公開日記はまさに自分プロモーションになる。
「知人には読まれたくないけど、不特定多数になら知られてもかまわない」って感覚は、老若男女かかわらず人間誰でも持っているようだ。病院の待合室で、どう考えても初めて会った老人同士が、そんな内輪のこと言っていいのか!と心配になるほどプライベートな話をしてるなんてことはよくあって、ああ、これもネット日記と同じだなーと思ったりする。

もちろん最初に電車で化粧をした人は、化粧をする行為を見せたかったわけじゃなくて、時間が無くて、でも「知らない人になら見られても恥ずかしくない」ところから始まったのだろうから、公開日記とはちょっと違う。でも今は「化粧する過程」そのものが「自分プロモーション」になってるのかもしれない。

最終的な問題は「なぜ自分のプロモーションが必要なのか」ということだ。それは自分の思う「自分の有るべき姿」と「現実の自分」にギャップがあるからだろう。そしてこれだけは言えるのは、ネットでの公開日記や人通りの多い場所での公開化粧で、そのギャップを埋められる可能性は実に低いってことなのだ。
|2008.07.26 Saturday |
アメリカの高校生が読んでいる経済の教科書
読書等
NCEE(アメリカ経済教育協議会)の高校授業の学習スタンダードをベースに日本向けにした本。アメリカではこういうことをきちんと授業でやっているということにまず驚いた。

家計、企業、国家と分け、それぞれの経済的主体としての目的や立ち位置が語られる。概念は知っていても用語はしらなかったとか、イメージしか知らなかったがそういう事だったのか!とか、そんな内容がずいぶんあった。
流石高校生向けだけあって、たとえば大学に進学するのと高卒で卒業するのに、将来の給料にどんな差が付くかといった話も入っている。働いてお金を儲けるというのがどんな意味を持つのか、いくらの給料があれば生活できるのか……そういったことを考えれば、今勉強することの意味も見えてくるのかもしれない。親や先生のために勉強してるんじゃないってことが判れば、頑張る甲斐もまた違ってくるだろう。

今の教育ではどうか知らないが、少なくとも私はこういったことを授業で学んだ記憶がない。こと社会については特に不真面目な生徒だったので、忘れているのかもしれないが、需要と供給のバランスとか市場の見えざる手とか、公定歩合によるコントロール……は記憶があるけど、機会費用とか、金利とインフレ率と実施金利の関係とか、国債についてとかはさっぱり。家計とか企業会計に関する基礎的な事項は社会に出てからなんとなく学ぶ"常識"のような感じだった。

ちなみに「常識」って言葉ほどやっかいなものはない。出会いは運に任されているので、知らないで過ぎてしまえばそのままだ。経済の基本的なことを真の意味で国民の常識にしたいならば、やはり義務教育で学ばせるしかない。日本も教育要項ににこういうことが入っていればいいのだが……。

ということで。
ぜひ日本の高校生や、経済はちょっと苦手っていう世の中のお父さんお母さんにはぜひしっかりと読んで頂きたい本でした。

アメリカの高校生が読んでいる経済の教科書
アメリカの高校生が読んでいる経済の教科書
山岡 道男,淺野 忠克
|2008.06.08 Sunday |
井上雄彦 最後のマンガ展
イベント等
FLOWER(漫画展紹介Flash)
上野の森美術館(概要/チケット)

バガボンド28巻の末尾に、さらりとそれは書いてあった。
まったく予備知識も無しにいって驚いた。
今まで誰がこんなことをやろうと思っただろう。

その小さな美術館の空間を丸ごと使って、バガボンドの一編が描かれていた。
それはたぶん最も重要な一編。バガボンドの終章のその後にくるだろう一編。

武蔵の死と救い。

比喩ではない。
入り口から順々と、壁に、床に、マンガが描かれているのだ。
本の"サイズ"という束縛を超え、ページ間の統一という束縛を超え、
奔放に、思うがままに。

空間にマンガが描かれている。

作者がこの展示のために描いた150ページのネームは、もしかするといつか
普通のマンガという形で出版されるのかもしれない。
だが、今ここにあるこの表現は、本には決して収まらない。

「でも僕は、彼の人生をなんとかして肯定したかった」

今回の展示は、井上雄彦の「バガボンド」と「武蔵」に対する、行き過ぎなくらいの思い入れの結果なのかもしれない。深く深く思い考えるこの作者が故に、武蔵の人生を肯定するのに、本はあまりに狭すぎたのかもしれない。

今回の作品の中でも、たとえば死を迎えた武蔵の元へ、成長した城太郎始め多くの生者が訪れるシーンなどは、違和感があるほど甘く感じられる。武蔵を真に赦したのは、彼と斬り合って殺された多くの死者と、彼と斬り合ってかろうじて生き延びた、わずかな生者のみに思えるからだ。

だが連載を抱えながら多忙を極めながら、空間を相手にこれだけの作品を「書き下ろした」熱意とパワーの前にすると、そんな「つっこみ」も無力だ。
ここにはまさに「圧倒的な」表現力がある。

どうぞ、読みに行ってください。

「マンガ」の驚くべき進化の形がここにあります。
|2008.05.27 Tuesday |
日常の疑問を経済学で考える
読書等
中学高校で学んだ数式が、本当は何を意味していたのか、ということを、ずいぶんと大人になってから突如理解して感動することが時々ある。それはなかなかわくわくする瞬間だが、それが授業の中で少しでも伝えられたら「数学嫌い」はもう少しなくなるのではないかと思ったりもする。とはいえ「理解」というのはなかなか奥深いものだから、20代の先生と10歳やそこらの子どもという組み合わせでは、そうそううまくいかなくても当たり前かもしれない。

この本は、著者である経済学教授が自分の生徒に課したレポートをまとめたものである。課題は「自分が観察した出来事の中で疑問を見つけ、それに経済学の原則を使って回答しなさい。ただし経済学を全く知らない人に話してもわかるように平易な言葉で説明すること」
身近な問題を説明することで、理論やら式やらの言わんとする本当の意味を学生に理解させようとする試みだ。そしてそれをレポートで終わらせず、出版してしまうあたりも流石だ(笑)

経済学で最も重要な概念である「費用便益の原則」(ある行動によって生じる便益が費用を上回る場合にのみその行動をすべきである)によって、さまざまな事が説明されていく。バーでピーナッツが無料なのに水が優良な理由やら、ウェディングドレスを購入する女性は多いのに、何度も使えそうなタキシードはレンタルされることが多いのはなぜか。パートナーが居る人ほどモテるのはなぜか……。
言われると至極当然に思えるが、それは着眼点が良いからであって、白紙から自分で説明しようとしたらなかなか大変だ。問題はアメリカ社会の中の極めて身近なことなので気楽に読めるし、ところどころでは日本とアメリカの差異のようなものも感じられて面白い。

私的に最も面白く感じたのは、経済学と、進化論を中心とする生物学がこんなにも似ているという事実だ。ダーウィンが経済学に影響を受けて進化論を思いついたなんて知りもしなかったが、言われてみれば確かにと頷ける。著者は日常の問題を経済学的に考える人を「エコノミック・ナチュラリスト」と名付けたが、これは生物学にヒントを得てこの課題を思いついたからなのだそうだ。

雌を争奪する争いで他の雄より優位に立とうとして、角がどんどん大きくなってしまったヘラジカの群れは、森の中で天敵から逃げにくくなる。個体が他の個体より優位に立とうとして繰り広げる競争が、種全体の地位を、種間の競争では劣位に落としてしまうことを「コモンズの悲劇」というそうだが、これは「値下げ競争」によって疲弊していく小売業界の実情とよく合致している.

暇つぶしに読むにはなかなか面白い本だった。とはいえ今日問題になっている経済的な格差もまた、水が低いところに集まりエントロピーは増大するのと同様に、理屈にそった自然な現象なのだと思い知らされる面もあり、ちょっと暗い気分にもなったりした。

日常の疑問を経済学で考える
日常の疑問を経済学で考える
ロバート H.フランク,月沢 李歌子
|2008.04.27 Sunday |
ゆれる
映画等
ゆれる 公式サイト
ずいぶん前から気になっていた映画をやっと見た。驚嘆すべき映画だった。

「事実はただ一つ。だが真実は複数ある」
この難しい言葉をここまで鮮やかに描き切ることができるとは。

稔が智恵子に抱いた憎しみも、智恵子を助けたいと思った気持ちも両方とも真実。猛が稔を心底助けたいと思った気持ちも、殺人犯の弟になったらやっかいだという気持ちも、両方とも真実。
こういった相反する真実に人はいつも挟まれている。恋人や子どもや親を愛しているけど、面倒だったり憎かったりもする。プラスとマイナスが決して相殺されることなく存在し続けている。
瞬間瞬間の真実に基づいて、恣意を持つ間もなく振り回されて、人は生きていき、他人はそこにまた様々なものを見る。誤解は実は一つの正解かもしれず、必死で正しい道を歩んだつもりが、己の目の曇りに気づかされる。

でもこういったアンビバレンツな感情は、前面に持って来ると何かと据わりが悪い。だから多くの場合フィクションでは一つの真実のみにフィーチャーし、それ以外は主役の"真実"を効果的に演出するための味付けに格下げされることが多い。
だがこの「ゆれる」はこの難題に正面から取り組んだように思える。複数の真実をリアルなままに描いてなお、観客のなかに「ずしん」とした何かを残しているのが凄い。じつは見ながら黒沢の羅生門を思い出していたのだが、あの映画ではまだばらばらのままだった「複数の真実」が、この「ゆれる」では最後に見事な結論に昇華している気がして、驚かされた。

巷でよく言われる脚本の素晴らしさは言わずもがな。奇をてらうことのないしっかりとした演出がまた心地よい。冗長な部分が少しもなく、それでいて不足な部分も無い。吟味され尽くした脚本や演出が本当に小気味よく感じられる。

そして何より主役の二人の表情が実に良い。稔のどこか貼り付いたような愛想の良さ。抑圧された自我が爆発した歪んだ笑顔。社会的に成功はしていても、心の中に引け目と逃避を抱えた猛の表情。

「奪い続けたのは僕で、奪われ続けたのは兄だった」と猛は独白するが、稔の中の殺意も嫉妬も自暴自棄もまた真実だったわけで、稔が猛を挑発したのは必死の自己表現でもあり、同時に罰されることが彼には必要だったとも思えるのだ。

真実は一つと思うが故に、複数の真実に揺れ続けた兄弟の表情が、最後の最後でなんのひっかかりも無いむき出しの泣き顔と微笑みに辿り着く。このラストシーンは、人がさまざまな真実を抱えて、なお存在していくことへの悟りにも似て見えた。
|2008.03.01 Saturday |
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