いんぷれっしょん

〜Oz's Leaves管理人の雑感所感〜
日常の疑問を経済学で考える
読書等
中学高校で学んだ数式が、本当は何を意味していたのか、ということを、ずいぶんと大人になってから突如理解して感動することが時々ある。それはなかなかわくわくする瞬間だが、それが授業の中で少しでも伝えられたら「数学嫌い」はもう少しなくなるのではないかと思ったりもする。とはいえ「理解」というのはなかなか奥深いものだから、20代の先生と10歳やそこらの子どもという組み合わせでは、そうそううまくいかなくても当たり前かもしれない。

この本は、著者である経済学教授が自分の生徒に課したレポートをまとめたものである。課題は「自分が観察した出来事の中で疑問を見つけ、それに経済学の原則を使って回答しなさい。ただし経済学を全く知らない人に話してもわかるように平易な言葉で説明すること」
身近な問題を説明することで、理論やら式やらの言わんとする本当の意味を学生に理解させようとする試みだ。そしてそれをレポートで終わらせず、出版してしまうあたりも流石だ(笑)

経済学で最も重要な概念である「費用便益の原則」(ある行動によって生じる便益が費用を上回る場合にのみその行動をすべきである)によって、さまざまな事が説明されていく。バーでピーナッツが無料なのに水が優良な理由やら、ウェディングドレスを購入する女性は多いのに、何度も使えそうなタキシードはレンタルされることが多いのはなぜか。パートナーが居る人ほどモテるのはなぜか……。
言われると至極当然に思えるが、それは着眼点が良いからであって、白紙から自分で説明しようとしたらなかなか大変だ。問題はアメリカ社会の中の極めて身近なことなので気楽に読めるし、ところどころでは日本とアメリカの差異のようなものも感じられて面白い。

私的に最も面白く感じたのは、経済学と、進化論を中心とする生物学がこんなにも似ているという事実だ。ダーウィンが経済学に影響を受けて進化論を思いついたなんて知りもしなかったが、言われてみれば確かにと頷ける。著者は日常の問題を経済学的に考える人を「エコノミック・ナチュラリスト」と名付けたが、これは生物学にヒントを得てこの課題を思いついたからなのだそうだ。

雌を争奪する争いで他の雄より優位に立とうとして、角がどんどん大きくなってしまったヘラジカの群れは、森の中で天敵から逃げにくくなる。個体が他の個体より優位に立とうとして繰り広げる競争が、種全体の地位を、種間の競争では劣位に落としてしまうことを「コモンズの悲劇」というそうだが、これは「値下げ競争」によって疲弊していく小売業界の実情とよく合致している.

暇つぶしに読むにはなかなか面白い本だった。とはいえ今日問題になっている経済的な格差もまた、水が低いところに集まりエントロピーは増大するのと同様に、理屈にそった自然な現象なのだと思い知らされる面もあり、ちょっと暗い気分にもなったりした。

日常の疑問を経済学で考える
日常の疑問を経済学で考える
ロバート H.フランク,月沢 李歌子
|2008.04.27 Sunday |
ゆれる
映画等
ゆれる 公式サイト
ずいぶん前から気になっていた映画をやっと見た。驚嘆すべき映画だった。

「事実はただ一つ。だが真実は複数ある」
この難しい言葉をここまで鮮やかに描き切ることができるとは。

稔が智恵子に抱いた憎しみも、智恵子を助けたいと思った気持ちも両方とも真実。猛が稔を心底助けたいと思った気持ちも、殺人犯の弟になったらやっかいだという気持ちも、両方とも真実。
こういった相反する真実に人はいつも挟まれている。恋人や子どもや親を愛しているけど、面倒だったり憎かったりもする。プラスとマイナスが決して相殺されることなく存在し続けている。
瞬間瞬間の真実に基づいて、恣意を持つ間もなく振り回されて、人は生きていき、他人はそこにまた様々なものを見る。誤解は実は一つの正解かもしれず、必死で正しい道を歩んだつもりが、己の目の曇りに気づかされる。

でもこういったアンビバレンツな感情は、前面に持って来ると何かと据わりが悪い。だから多くの場合フィクションでは一つの真実のみにフィーチャーし、それ以外は主役の"真実"を効果的に演出するための味付けに格下げされることが多い。
だがこの「ゆれる」はこの難題に正面から取り組んだように思える。複数の真実をリアルなままに描いてなお、観客のなかに「ずしん」とした何かを残しているのが凄い。じつは見ながら黒沢の羅生門を思い出していたのだが、あの映画ではまだばらばらのままだった「複数の真実」が、この「ゆれる」では最後に見事な結論に昇華している気がして、驚かされた。

巷でよく言われる脚本の素晴らしさは言わずもがな。奇をてらうことのないしっかりとした演出がまた心地よい。冗長な部分が少しもなく、それでいて不足な部分も無い。吟味され尽くした脚本や演出が本当に小気味よく感じられる。

そして何より主役の二人の表情が実に良い。稔のどこか貼り付いたような愛想の良さ。抑圧された自我が爆発した歪んだ笑顔。社会的に成功はしていても、心の中に引け目と逃避を抱えた猛の表情。

「奪い続けたのは僕で、奪われ続けたのは兄だった」と猛は独白するが、稔の中の殺意も嫉妬も自暴自棄もまた真実だったわけで、稔が猛を挑発したのは必死の自己表現でもあり、同時に罰されることが彼には必要だったとも思えるのだ。

真実は一つと思うが故に、複数の真実に揺れ続けた兄弟の表情が、最後の最後でなんのひっかかりも無いむき出しの泣き顔と微笑みに辿り着く。このラストシーンは、人がさまざまな真実を抱えて、なお存在していくことへの悟りにも似て見えた。
|2008.03.01 Saturday |
奇想遺産
読書等
奇想遺産―世界のふしぎ建築物語
奇想遺産―世界のふしぎ建築物語
鈴木 博之/藤森 照信/隈 研吾/松葉 一清/山盛 英司

見開き2ページで77個の不思議な形の建築物を集めた本。それぞれ建築には一家言ある人たちがある時は写真家となり、あるときはエッセイストとなって、それらについて語る。20世紀の建築物が多いが、もちろん古いものやいつできたのか判らないものもある。

写真集ではないので、ひとつひとつの建物については2,3枚の写真しかなく、もっと見たいー!という気にさせられる。きっと沢山写真撮ってるんでしょうに(笑)。でも添えてある文章が興味をそそっているのも確かだし、見開きでひとつ、というパターン化されたコンパクトさがこの見やすさと買いやすい価格の安さを生んでいるのも事実なんだろう。
参考文献や関連ウェブサイトもきめ細かく載っている。素人に建築物の魅力を伝える入門インデックス本という位置づけとして実にお見事な本だと思う。
まあ著者達の気持ちとしては現場に行ってとにかく実物を見て!ってことになるのだろうが、そんな世界各国あちこちに行けません(苦笑)

定番の寺院や城以外にも

フランク・ロイド・ライトのジョンソンワックス本社ビル
ヨドコウ迎賓館
横沢設計室の紀行コーナー

ウィーン郵便貯金局
郵便局の博物館サイト(BANKING HALL 360°PANORAMAから)

公営集合住宅であるアブラクサス
(建築家ボフィルのサイトから)

など、実に印象的だった。

あとはさざえ堂に行ってみたいなー!
|2007.11.25 Sunday |
99.9%は仮説
読書等
理科系人間にとっては、この本のメインテーマである「殆ど全ては仮説」というのは、特に目新しい物では無いだろう。とはいえ、そこは流石の竹内薫氏。読後感は面白かったに尽きる。
まず書きクチに驚いた。ところどころ文字がボールドになっているし、文末に「(笑)」が入っていたり。そこらのブログを読むような気安さなのだ。だがどの文にも一切の無断が無い。この人の「判り易さ」は本当に痛快だ。
様々な例もインパクトは十分。例えば初っ端の「飛行機の飛ぶ原理は判っていない」本当ですかっ!? と言いたくなるが、どう見ても本当そうだ(笑)。最近の日本人の過激なまでの安全指向がアホらしく思えて来る。

科学哲学という学問の存在については意識した事がなかったので大きな収穫だった。カール・ポパーの「科学は常に反証出来るものである」という定義と、それを説明するくだりはなるほどと膝を打つ。私は一応工学部の出身だが、このポパーの反証可能性について学校で教えてもらった記憶が無い。「科学はその歴史的、文化的背景と共に学ぶべき物なのに、日本はそれが極端に不足している」という竹内氏のコメントは身をもって感じ入ってしまった。

ということで理科系の大学生の方と、バラエティ番組や雑誌の健康記事についつい振り回されてしまう方にはぜひご一読をオススメしたい。

とはいえ。
あちこちの目線や尺度で相対的にモノを見るクセが付きすぎても困るかな……というのが個人的な実感。たとえば複数の立場が両方「判って」しまった時、どうすればいいのか決められない、といった感じ。つまりは相対的にモノを見過ぎて「自分の尺度」を失ってたり、選択の勇気が出なかったりってことが、自分の場合よくある。
科学や理論は人の選択や決断の補助にしか過ぎないワケで。当たり前なんだが改めて自分に言い聞かせてしまった。まあ自分の存在と人生すら仮説と悟りきって生きることができれば、それもまた一つの在り方かもしれないが。

99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方
99・9%は仮説 思いこみで判断しないための考え方
竹内 薫
|2007.10.11 Thursday |
ストリングラフィ
イベント等
Stringraphy――ストリングラフィ。

この不思議な楽器の事を知ったのは日経新聞に時々入ってくる「THE NIKKEI MAGAZINE」の特集記事でだった。たぶん1年ぐらい前のことだったと思う。ずっと演奏会に行きたいと思っていたが、本日高輪区民ホールで行われたストリングラフィ・アンサンブル・コンサートでようやく念願が叶った。

ストリングラフィの詳しいことはStudio EVEのホームページをぜひご覧下さい。そうメジャーな存在ではないので、こちらのサイトから演奏会のスケジュールなどを把握するのが一番早いと思う。

ストリングラフィは日本人の作曲家である水嶋一江さんが生み出した楽器である。楽器といっても持ち運べるようなものではない。その都度会場に大量の絹糸を張り、それを擦ったりはじいたりして演奏する。音階は糸の長さによって決まる。ユニークなのはそれぞれの絹の両端に紙コップが付いていること。つまりステージに大量の糸電話が張られている図を想像して下さればOK。紙コップはスピーカーの役割をしている。

紙コップの底同士を糸で繋いだ糸電話。紙コップの開口部に棒を渡し、その棒から左右の柱までを糸で繋いで、糸電話をピンと張っている。糸電話部分の糸には松ヤニが塗ってあり擦ると良い音がでる。紙コップの両側の糸では音は出ない……と説明されていたが、その部分も色々な効果音のために使っていたようだ。

最初の演目はビバルディの春だったのだが、この瞬間の驚きを言い表すのはちょっと難しい。ステージのスピーカーから、別録音の音を流しているのじゃないかと本気で思った。そのくらい音が多様なのだ。主旋律を奏でるバイオリン様の音はなるほどと思うワケだが、それ以外に小鳥のさえずりや木琴のような音も飛び出す。ステージにはソプラノ、アルト、ベースの3つのセットが張られて、それを3人で演奏しているのだが、それが信じられないほど複雑な音の重なりが感じられる。

「大きな古時計」や「赤とんぼ」などは風の音や虫の声、挙げ句の果てには古い扉がぎーっと閉まるような音まであって、まさに音楽と自然を一体化させている感じだった。弾かれた弦は信じられないほど小気味の良い音が出る。まるでキツツキが木を叩く音のようだ。それをパーカッションの様に使ったり、木琴のようにメロディを演奏したりする。
曲目のバリエーションも広く、クラシックや童謡だけでなく、高橋幸宏(YMO)のライディーンやら佐渡おけさまで。そのどれもが感嘆してしまう仕上がりだ。

曲によっては5人で演奏するのだが、人数が多くなればなるほど音の複雑さは増していき、見応えと聴き応えが出てくる。ストリングラフィは奏者たちの身体の動きも魅力の一つ。5人の女性が張り巡らした糸を操っていくのだが。白い手袋をはめた手や腕の動きが美しく、生成の服をまとった5人はまさに音楽の精霊のよう。演劇やダンスのプロデュースをしていた方がスタッフに入っているそうで、糸をすっと撫でていく動き一つもきれいに見えるように研究されているようだった。

特にほぼ最後の演目であるストリングラフィのために作曲されたオリジナル組曲「晩秋」は本当に素晴らしかった。ストリングラフィという楽器の魅力を引き出すための曲なので、ありとあらゆる音のバリエーションが組み込まれ、見た目そのものも実に美しい。

今回の弦は100本強だったそうだが、大きな会場の場合は800本もの弦を張ることもあるそうだ。ストリングラフィはまさに「一期一会」の芸術であり、パフォーマンスなのだろう。大変素晴らしい経験だった。
|2007.09.30 Sunday |
生物と無生物のあいだ
読書等
今話題になっている本だがまさに読む価値がある一冊だった。
ずっと昔読んだアシモフの科学エッセイの中で、生物の定義を試みていた一編があった。「生物とは局所的にエントロピーを減少させるものである」 まあなんとうまいことを言うんだろうと感心しきりだった。この本を読んでこの言葉は実はシュレディンガーの示唆だったことを知ったのだが、このエッセイや複雑系を読んだ時の感動が、この「生物と無生物のあいだ」によって昇華された気がする。

簡単に言えば分子生物学者である作者が「生命とは何か」を定義しようとしたものだ。DNA全盛の昨今では「生命とは自己複製するもの」というのが定説になっているが、今目の前にある生体を説明するのにはいまいちピンとこない。ウイルスやDNAの発見の歴史を辿りつつ、作者が注目したのがルドルフ・シェーンハイマーの研究成果だった。
シェーンハイマーは食物として摂取した物質が生体内でどうふるまって排出されていくのかを研究した。同位体(重水素や重窒素)を使ってマーキングした食物をマウスに食べさせてトレースした結果、タンパク質も脂肪も驚くべきスピードで置き換わっていくことを定量的に測定する。エネルギーとして変わらず備蓄されていると思われていた体脂肪や一生の間分裂も増殖もしない脳細胞も、分子レベルでは破壊と構築を繰り返している。

つまり生体とは絶え間ない流れの中の淀みなのだ。「エントロピー増大に抗う唯一の方法は…(中略)…仕組み自体を流れの中に置くことなのである」 こうして作者は「生命とは動的平衡(dynamic equilibrium)にある流れである」という結論に達する。
それぞれの細胞や分子が新陳代謝していく際にはDNA複製と同様に相補性が活躍する。ジグソーパズルの足りないコマの形が周囲のピースによって形作られるように、周囲によって欠損部分が埋められるとういわけだ。

そしてもう一つ。生命の重要なファクターとして著者は時間を挙げる。受精卵の遺伝子の一部を破壊して生命に必要不可欠な物質を欠損させた場合でも、生命は細胞分裂の過程で欠損を補完するルートやパーツを作り上げてしまう。ただし人為的に作った一見正しいが不完全な部品を埋め込むと、それは致命的な欠陥となり、できあがった秩序は崩壊の一途を辿る。
生命は時間軸に添って流れる決して後戻りできない唯一一回性の変化プロセスによって構築されている。これが構築されてから一部の部品を除去したり交換できる機械との違いである。

と、こう書いてくるとがちがちの学術書のように思えるが、全くそんなことが無いのがこの本の凄いところだ。作者のリアルな研究生活も語られるし、時にはニューヨークの風景がきわめて叙情的に描写される。これはれっきとした「科学よみもの」なのである(誰が付けたのか、帯の「科学ミステリー」ってのは少々陳腐で残念だ。科学読み物としては一般的な構成だと思うので)
正直言うと個人的にはそういった部分が少々邪魔に感じられたりもした。学術部分が実にエキサイティングなので「そんなこといいから本筋をもっと!」という気になってしまうからだ。とはいえ蒸留酒は水割りの方が飲みやすくて美味しい事もあるわけで、専門的な内容をを門外漢にわかりやすく語り、一挙に読んでしまうような作品に仕上げるのは、確かに素晴らしい文才と言える。

DNA発見の栄華を欲しいままにした二人の科学者が、若くして逝った女性科学者の研究成果を無断で利用していたらしい事や、もっと評価されるべき地道な努力を続けた科学者の存在など、読んでいて心が痛くなる場面もあるが、ベストセラーの中で話題として取り上げられれば多少は溜飲が下がるというものだ。

とはいえ、では「なぜ」今私のいる空間に動的平衡が生じて私という淀みを形作っているのか。その点については言及がない。やはり「粒子はそもそも秩序立つように振る舞う」という複雑系的な発想を採用されるのだろうか。それとも別の何かなのか。この著者がどう考えているのかには興味深いところだ。
そして最後にこの本の最大の魅力について。
それは全編を通じて「生命」への作者の畏敬の念が感じられる事だ。「生命とは動的平衡である」なんて科学的で味も素っ気もない定義を語っているにも関わらず、読み終わるととても優しい気持ちになれるのは、命への畏敬と愛情があるからだと思う。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
福岡 伸一
|2007.09.19 Wednesday |
ツレがうつになりまして。
読書等
最近自分の周囲で、うつ病の人が頓に目に付く。軽い状態であまりスケジュールのきつくない仕事でリハビリしている人もいれば、休職してしまった人もいる。「いじめ」や「ニート」と同じで、「うつ病」という言葉がポピュラーになったが故に患者が増えてしまった事もあると思うが、本人も周りも本当に大変だ。

うつ病については山のように本が出ている。幸い私は本気でうつ病のことを勉強しなければならない状態ではないので、気楽に読めそうなこの漫画を手にとった。もちろん途中のコラムその他から時々リアルな重さがにじみ出してくるわけだが、それでも総じて気楽に読める。

内容は夫がうつになってから回復し始めるまでのエッセイマンガ。一番印象に残るのは、うつになった夫を支え切った妻の愛情とおおらかさだし、それに対して夫が深く感謝している様子が伝わってきて、読後は幸せな気持ちになる。

うつ病はセロトニンの現象で起こるとか、卵白や大豆製品にはセロトニンの原料になるトリプトファンが含まれているとか、多少の知識も書いてある。セロトニンを合成するには日の光を見ることが重要だそうで、曇りや雨、また日が短くなる冬は症状が悪化するのだそうだ。

とはいえ心身症の症状で最近まで投薬を続けていた知人は、ぱらりとめくっただけですぐに本を閉じてしまった。「その時の感覚が蘇ってきて具合が悪くなりそうだからダメ」ということだった。うつ病の薬なんぞ飲んだことがない私でさえ、ストレス満杯の不安定な時期の記憶が想起されてしまったりしたので、回復期にある方は読まない方がいいかもしれない。自分はまだうつ病じゃないけど、もしかしていつかなるかも……という「ちょっと不安」な程度の頃に一読しておき、「うつ」は怖くないんだと思えれば、それが一番いいかもしれない。
ツレがうつになりまして。
ツレがうつになりまして。
細川 貂々
|2007.09.02 Sunday |
小池頌子展
イベント等
群青の彼方から 小池頌子展

日経の紹介記事で読んでがぜん行きたくなった。どうしてもと思った理由は2つ。記事に載っていた貝の形をした陶器に心を惹かれた事。そしてもう一つは紹介記事の1フレーズに違和感を覚えたからだった。
「小池の作品を通して貝殻というものの形の美や神秘、言い換えれば自然の造形の玄妙を知る。アコヤガイやサザエを漫然と見ていても、そこに美を看取することはできない。芸術というフィルターを通して、貝の美しさが現前したのである」(2007/06/27, 日本経済新聞朝刊)
本当にそうなのか? そんなはずはない。少なくとも私は貝殻を見たら美しいと思うのだから。

会場である菊池寛実記念 智美術館は、陶器の収集家である菊池智のコレクションのために作られたものだそうで、こじんまりとしているが、いかにも個人の趣味で作られた感じの贅沢な美術館だ。受付を通りぬけ、トレードマークの螺旋階段を降りた地下が展示室。薄暗い地階に降りて行く時点で既に水の底に潜っていくような不思議な感覚を覚えていた。
小部屋に分かれた展示室の壁は暗い色合いで仕上げられ、照明も落としてある。その中に貝の形をした白い陶器が浮かび上がると本当に海の底にいるようだ。細いスポットライトの中にマリンスノーすら見える気がした。

どの陶器も、そのもの自身がその形を選んだのだと言わんばかりの自由さと自然さがある。作家の恣意によってそうなったのではなく、土と火が、その形を、その色合いを、その輝きを望んだかのようなのだ。白いテーブル型の陶器に青い釉薬を流した「水の形」という作品も、白いテーブルを置いておいたら自然に水がたまったと言わんばかり。「白の形」という花をモチーフにした作品群は、陶器と磁器を組み合わせたもので、それこそ「作った」ものなのだが、それすらも、花が散って杯の中にはまりこんだようだ。

特に代表作になる「貝のうつわ」「貝のふたもの」群はその勢いが顕著だ。仏像を彫る名人が、自分は木の中に埋まっている仏像を「掘り出しているだけだ」という言い方をするが、まさにそんな感じがした。作品名が「○○の形」といった妙にシンプルなのがわかる気がした。何かテーマがあってそれを表現しているのではなく、心のうちにあるものを現実の世界に具現化させようとする。純粋にそれだけだから余計な言葉が不要なのではないか。

では、作家の心のうちにあるもの、とは何か。それは自然の造形への感動と賛歌に他ならない、と感じた。作家が水たまりや貝や花を見て感じた感動をそのまま形にしようとしている。観客である私は、作品を見ることで、自分がそれらを見た時の感動を想起したり再現している。

別に芸術のフィルターなんぞなくても、貝も花も水も十分に美しい。ただ「人」というフィルターを通すことで、わかりやすくなったり、見落としていたものに気づくことがあるのは確かだ。その意味でこれらの作品群は写真やボタニカルアートに近いものがある気がする。
恣意を持たない素直な感動と感覚。それが「器」という形で表現されているのが実に魅力的であった。
|2007.08.11 Saturday |
| 1/3PAGES | >>
CATEGORIES
LATEST ENTRIES
| 1/3PAGES | >>
CHEERS!
CHEERS!
CHEERS!